2025.07.1721:35
こんにちは
こんにちは
私は社会人をやりながら音楽をやっている狂人です.
じょぶずという名前でいますが,好きに呼んでください,本名を知っている方は本名でどうぞ.
高校生までは東京に出たことがなく,大学で初めて東京に出たんですが,東京ってめっちゃデカくてビルが高くてビビり倒してましたが,もう東京のビル群の中で歩くことに慣れてしまって,ビルの高さにも時の流れる速さにも慣れてしまい,いつの間にか死んでいくんだなぁと悲しくなりました.
慣れていくことで生きやすくなることと引き換えに,捨てていったものも多くなったと感じています.
捨てたもの全てがきちんと並べられて置いてあり,人生の最期に「これがあなたが捨ててきたものだよ」って見れるようになっていれば何も考えずに捨てられますが,そう上手くできていないから人は知らない間に多くのものを捨ててしまっています.
最後までの残ったものが自分であるように,選択の連続で捨ててきたものも同等に自分であるようです.
明確に切り替えのスイッチがあって,仕事をしだすときにこのスイッチがカチッとなります.それにより僕は私に変わり,歩き方,振る舞いはより丁寧になります.人との関わりに対して,自分を守るための意思というものは失われ,タスクを消化する道具に全振りします.鋭利な刃物のようです.場を成り立たせるため,その場に馴染むように自分を作り変えるようなものです.それも自分ではあるのですが.
以前はこの,自分がどの自分であるのかわからない,というより,どれが本当の自分なのかわからない,ということにとても悩んでいました.世の中を上手く乗りこなしているということもあるかもしれません.ただ,人と接し続けると許容量をオーバーし,システムは完全に沈黙します.それがないように乗りこなすテクニックをこの10何年間で培いました.
余裕がある人は,この世界を美しく見ることができると気付きました.世界はきっと美しいんだと思います.しかしながら,僕にはその余裕がなく,ぐちゃぐちゃでぶつかってこんがらがった世界しか今は見えていません.世界を良くする運動というのは,とても遠くにあるような気がしてなりません.カメラで美しく切り取った世界が本当なのかなんてわからないし,ごちゃごちゃした中で適当に撮った写真の方が価値があるようにも思います.ようするに,美しさなんて基準はどこにもなくて,あるのはその人の感性だけだという話です.
そんなときに,本当に予想打にせず見えた夜に光る一つの星に心を打たれ,唐突に動けなくなることがあります.そして,とても自分がちっぽけな人間だと気付きます.大きいと思っていたものは,この宇宙が誕生してから永遠のような長い時間のうちのほんの少しだということを悟ります.ただ,僕らの中の永遠は,この大きな宇宙なんてものではなくて,生まれてから死ぬまでの数十年なんです.それが僕らにとっての永遠で,それが本当に大切なものなんだろうって今は思います.
それでは,さらば!